柿谷カウンセリングセンターはリアリティセラピー(現実療法)を主とし全人的アプローチを目指していす

ネガティブ・クリティシズム

柿谷正期*

Negative Criticism

Masaki Kakitani

Dr. William Glasser mentions seven deadly sins, which destroy human relationships. The first of the seven is criticism. People say that criticism is necessary and that constructive criticism makes the world better. Is there any such thing as "constructive" criticism? How does external control psychology gain and hold power through criticism. The author attempts to straighten out the confusion about criticism.

はじめに

グラッサー博士が最近よく口にしていることの中で「人間関係を破壊する7つの大罪」がある。ロスアンゼルスのベバリーヒルズの地区でチョイス・コミュニティ・プロジェクトを始めたいとのことで作製されたグラッサーの対談ビデオを見たときに、グラッサーがこの7つをメモも見ずに手早く口にされていたので、方々で相当語っておられるようだとの印象を受けた。グラッサー(1984)は『人生はセルフ・コントロール』の中でも、建設的な批判は存在しないと言っている。グラッサー(1998a)は『選択理論』の中で、自分の父親との関係がとても良好であったことを記している。批判のない父親であったようだ。もし人生を始めるにあたって、自分の父親を選べるのなら、迷わず実の父親を選ぶとも述べている。グラッサーの講演を聞いたり、グラッサーの著作を読むことから、グラッサーが自分の子供たちとのかかわりでも批判をしないことを実践していたように推測できる。しかし、グラッサーは従来の精神療法にはあきたらず、やがては現実療法と呼ばれる新しい精神療法を提唱することになる。これは、批判力なしにできることではない。批判の能力を持ちながら、批判をしない選択をしているということである。グラッサーはデミングの言葉の中でとても重要な言葉として、「人は他人を評価してはならない」と言う言葉をあげている。グラッサーはこれを言い換えて、「人は他人を公に評価してはならない」と言う。つまり頭の中で評価することは誰もがしていることであるからだ。別の言い方をすれば、頭の中での批判は誰もがしていることと言えよう。この論文ではこのような批判を問題にしているのではない。この頭の中で起こっていることを表現するか、するとしたらどのように表現するかが問題なのだと思う。

言葉の意味

批判を日本語大辞典で見ると、「事柄の正しさ、よし、あしなどを批評し判断すること」とある。批評の説明としては、「事物の価値を検討、評価、批判すること」とある。批判も批評も英語ではcriticism が使われている。批判をしないほうがよいとの話なると、意見も言ってはいけないのかと、思われる傾向があるが、関連した言葉としては、「意見」「評価」「フィードバック」などがある。意見を述べることは必要であるが、批判的な意見もあるし、批判的でない意見もある。フィードバックにしても、リアリティセラピーの関係者が目指しているのは、批判のないフィードバックの仕方である。何を口にしなくても、批判的な目つきもある。これも一つのフィードバックである。

批判に対する考え方

批判があったから、この世は進歩してきた、と言う人がいる。しかし見方を変えると、適切な「自己評価」があったから、この世は進歩してきたとも言える。新潟県警の不祥事に対しての処分が発表されたときに、抗議の電話が殺到したと報道された。警察のしていることを批判する必要があるのではないか、政府のしていることを、政治家のしていることを批判する必要があるのではないか。あるいは患者を取り違えて手術をする病院のあり方を批判すべきではないか。これに異論をはさむ人はないであろう。本来あるべき姿があり、そうでない現実を見たときに、だれでもこれはおかしいと思う。処分の内容に不満な人もいれば、妥当と考える人もいる。その処分は妥当とは思わないと意見を述べること自体が批判なのではない。ただその意見の述べ方を批判的にすることもできるし、そうでない表現の仕方もある。このような場面で批判的にならずに意見が述べられる人は、家族や親しい人間関係でも批判的にならずにフィードバックができる人なのではないかと思う。ただこのような線引きはあいまいさが残ってしまう。個人的な人間関係では批判をしない係わり方を身につけ、パーソナルでない関係では批判をしてもよいと言えば線引きは少し容易になる。夫婦関係はパーソナルな人間関係なので、批判をしないほうがよい。新潟県警や神奈川県警はパーソナルでないので批判してもよい、ということになる。しかし、パーソナルでないことで度々批判している人はやがて、パーソナルな関係でも批判をしてしまうのではないだろうか。パーソナルな関係でも批判をすべきだと言う人は、グラッサーの指摘する人間関係を破壊する7つの大罪の一つに批判を加えたくないと思っているからであろう。批判は大罪の一つであるとグラッサーは言い、他の人は罪ではないと言うかもしれない。何が罪かはその人の持っている物差しによって違ってくる。罪の本質は、人を測る物差しと、自分を測る物差しが違っていることにある。子供が皿を落として割ると注意不足、自分が落として割ると手が滑った。選択理論によると、人がそのときしたことは常に最善と思うことである。やった直後にしまったと思ったとしても、それをしたときには最善と思うことしか人はしていない。その直後には違った情報が入ってきたから、しまったと思うのである。常に最善を目指しながら、傷つく人がいるということは、それだけ人は罪深い存在なのかもしれない。聖書は「裁いてはいけません。裁かれないためです」と教え、「なぜ兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり)には気がつかないのですか」(マタイ7:3)と人を測る物差しと、自分を測る物差しに違いがあることを指摘している。批判を罪とみるか、正当な行為とみるかで議論はかみあったり、かみあわなかったりする。

建設的な批判も破壊的

批判を破壊的な批判と建設的な批判とに分けて、建設的な批判はよいとする意見は多い。しかしグラッサー(1984)は建設的な批判は存在しないと言い切る。私が建設的と思っても、それを聞いた人は破壊的と思う可能性は高い。私自身、人の批判が役立って大きく成長させてもらったということは一度もない。批判をする側はいつも建設的であるが、受ける方はいつもそう受け取っていない。私が今まで批判した人が、それを契機として立派な人になったということは一度もない。批判する人される人、それぞれが違った物差しを使っている。ある人は建設的と思い、別の人は破壊的と思う。グラッサーが言うように、批判はすべて破壊的と思って対処するほうが無難である。

自己批判

自己評価はしなければならないが、自己批判はしないほうがよい。他人が批判する場合はいやなら逃げ出せる。しかし、自分が自分を批判している場合、批判している人から逃れることができない。批判の中でももっとも有害なタイプの批判と言えよう。自己批判の対象になるのはしばしば、知能、学歴、社会的地位、家族の地位、創造性、性的魅力、容姿であろう。グラッサー(1984)は、「人が十分私を批判してくれるので、私は自分を批判しないことにしました」をモットーとするように勧めている。成長過程で親、兄弟、親戚、教師、友人から受けた批判をベースにして、私たちは自己批判をしっかり身につけてしまっているが、自己を肯定する(アファーメーションの)習慣を身につけるほうがはるかによい。

批判しない対処の仕方

問題を起こす人は、人の足を踏んでいるようなものだ。足を踏まれたら痛いとだれでも言う。「痛い」と言うことは批判ではない。もちろん批判しながら「痛い」と言うこともできる。通常私たちは批判をしないで、「痛い」と言うことを実行している。身体的な痛みに対しては、「痛い」と言うだけでよいが、精神的な痛みのようなものに対してはどのように対処できるであろうか。トーマス・ゴードン(1963)は「私メッセージ」という表現方法を有効であるとして紹介している。それに厳密に従わないとしても、ある人の行動が自分に何らかの影響を与える場合に、次のような表現も可能である。

○外出の時間に遅れる妻に対して、次のように言えよう。「時間を守りたいと思っているので、出かける時間に君の準備ができていないと、きがきではない。」

○夕食の時間に大幅に遅れても、電話を入れない夫に対しては、次のような言い方も可能である。「おいしい、温かいお食事をして欲しいと思っているのに、電話連絡がないと、予定が立たなくて困るわ。」

○電気を消し忘れる子供に対しては、「昨日、電気ついていたよ。」だけで十分かもしれない。

○歯磨きのチューブのふたを占めない人には、「歯磨き使ったら、ふたを閉めておいてくれると、ありがたいんだが。」あるいは、何も言わないで、その都度自分でふたを閉めるのも一案である。開ける手間が省けたと思えば、批判しなくても済む。

グラッサーとカーリーン(1984b)は、選択理論的表現方法を、外的コントロール心理学をベースにした批判的な表現と対比させている。親が子供に、カップルがお互いに、教師が生徒に、上司が部下に、どのように表現するかを対比させている。その中から2例を紹介しよう。

○親子関係で親が子供に「おまえ、バカか? うちの子には鼻にピアスはさせないよ」と言う。これに対して次のような言い方もある。「ピアスしたかったらどこにでもしなさい。君がどんな格好をしても、お父さんの愛は変わらないよ。でも今すぐしないでくれるかな。今の君のステキな写真をとっておきたいんだ。」

○教師が生徒に「あなたの宿題はインターネットからそっくりそのまま写し取ったものね。規則を知っているよね。この教科ではあなたに落第点しかつけられないわ。」と言う。これに対して次のような言い方もできる。「これを選ぶのに、ずいぶんたくさんインターネットで読んだでしょうね。宿題で求められていることがしっかり入っているわ。でもあなたが書いたものでないので、このままでは、単位はあげられないわ。でも、内容はとてもいいと思う。これを選んだ理由をしっかり説明したものを提出したら、それでいいことにするわ。ネットはこれからもぜひ使ってね。何か写したかったら、どこから写したかを書いておいてね。そしてどうしてそれを写す価値があるか、その理由をきっちり書いておいてちょうだい。」

教える立場の人の対応

教えたり、トレーニングする立場の人は、批判が得意である。またそれなしに対応することに戸惑いを覚える人もいるであろう。親が子供に、教師が生徒に、上司が部下に批判をしないで対応する方法はあるはずである。批判について議論するときに、自己評価の概念がなかなか出てこない。教育に強制は必要であり、教育で人権を認めていては教育ができない、教育とは本来暴力的なもの、という人の主張には自己評価の概念が見られない。自己評価はSelf-evaluationであって、Self-esteemではないが、自己評価の言葉はその用途で実に多くの混乱がある。間違った意味で使われているのが、自己肯定感、セルフイメージ、自己像の高低という使い方である。『臨床心理学辞典』(恩田彰、1999)では、正しく「他人によって評価される他者評価に対して、自分の学習、行動、性格、意欲などを自分自身で評価すること」と解説している。心身医学会が編纂した用語事典(1999)では、self-evaluationとself-esteemの区別がつけられていない。つまり、自己評価(self-evaluation)に対する解説の内容が、self-esteemの内容となっている。これについては、私は医学書院に手紙を書いて意見を述べさせてもらったが、今だかって返事をもらっていない。上質の追求を目指す私たちにとっては、「自己評価」の言葉が誤用されていては、大変困ることなのである。教育心理学を担当されている大学関係者が、しばしば誤用されている現実に私自身気づいている。このような表現を批判ととることも可能であり、足を踏まれた者の「痛い」という叫びととることもできる。間違っていることをいちいち指摘する必要があると思っているわけではないし、誰かが何かを言い間違えたとして、それを指摘する気持ちは毛頭ない。しかし、誤用が続くことは大変困ることである。言葉の意味は、言葉の中にあるのではなく、その人のうちにある。私が使う「自己評価」と、聞く人が理解している「自己評価」の内容が全く違うとなると、大変困ることとなる。これを批判と呼ぶならば、批判が許される数少ない状況がこのような状況かれしれない。フィードバックと言う言葉を使えば、私は出版社に対して、「違うのではないですか」とフィードバックをしたわけである。相手が「違いません」と言ってくることもできる。言ってこないという事実は、間違いに気づいたのかもしれない。さて、正しい意味での「自己評価」について共通の理解があるとの前提で先に進むことにしょう。テキサス州のオースティン大学の教師マミー・ポーター(simon, 1978)は、教育実習の学生に対して3つの質問をする。すべて自己評価の概念を取り入れ、批判をしないやり方である。ベテラン教師が教育実習の学生に批判をすることは山ほどあるであろうが、マミー・ポーターは一切の批判をしない対応の仕方をしている。

  1. 自分のしたことでよかったことは何ですか?
  2. もう一度同じことをするとしたら、どこをどのように変えますか?
  3. 私が力になれるとしたら、どんなことで力になって欲しいですか?

これは子供とのやりとりで親が使える有効な方法である。祖父母の家に行くときに、車の中で子供がうるさく、親がしばしばどなり声をあげなければならない状況で、あまり楽しい状況ではなかったとする。親は子供たちに次のような質問ができる。

  1. おじいちゃん、おばあちゃんの家に行くことでどんなことが好き?
  2. この次行くときに、どんなことを変えたらよいと思う?
  3. もっと楽しい旅行にするために、お父さん、お母さんにしてもらいたいことが何かある?

スポーツ界では、しばしば罵声が飛び交う。コーチや監督は選手を厳しく批判する。それでもそれなりの効果が出るので、厳しくするから効果があると思ってしまう。選手にとっては、罵声や批判は決してうれしいものではないはずだ。罵声や批判を受けて、快感を味わっている人がいるとしたら変態である。選手がこのような状況でも批判に耐えるのは、試合に勝ちたいという強い願望があるからだ。コーチや監督の上質世界と、選手の上質世界に重なり合う部分があるから選手は批判に耐える。しかし、コーチや監督が、批判のない対応の仕方を身につけて、損するものはない。コーチや監督は選手のうちに、技を磨きたい、勝ちたいという思いがあることを確認したら、批判しないやり方で手助けができるはずである。 「おちこぼれの天使たち」(Stand and Deliver)という名の映画がある。ロスアンゼルスで実際あったことを映画化したものである。教師のエスカランテは、生徒を批判、非難する場面があるが、教師が生徒の上質世界に入っていたので実害はなく、生徒は高度な微積分に取り組み難解な試験に合格した。同じことをエスカランテはサクラメントに行ってやろうとして、完全に失敗した。生徒の上質世界に入っていないのに、批判、非難は有害であったのだ。生徒がエスカランテについてこなかった。批判、非難をして、成功することがあったとしても、批判、非難が成功させたと思ってはならない。

批判したくなったとき

サイモン(1978)は人を批判したくなったときに、次の6つのフィルターを通すことを勧める。そうすれば、批判しないですむし、悪影響も少なくなる。

1. 6つのフィルター

  1. 今それを言ったほうがよいか? 家に帰ったばかりで疲れているとき、問題を抱えているとき、車のバンクを修理した直後、警察官から反則切符をもらった直後等々は、避けた方が賢明である。
  2. それを言った直後に十分話し合う覚悟があるか? 時間がとれない状態で、それを言ってそこから出ていくことは、相手をナイフで刺して血だらけにして逃げるようなもの。
  3. その人は同じことを何度も言われているか? ごみ捨てまた忘れるつもり? などはこの類である。
  4. 言われたからといって、変えられることか? 「恥ずかしがらないの」「どうしてそんな小さな声しか出せないの」「そんなキンキン声を出さないの」「どうして、こんなに給料が少ないの」と言われてすぐ変えられることではない。
  5. 自分の問題から言いたいのではないか? 相手のためと言いながら、実は自分のために相手を批判していることが多い。未解決の 自分の問題が解決すると、まったく言う必要のないことかもしれない。
  6. この人は批判を必要としているか、励ましを必要としているか? 多くの場合人は批判よりも、励ましを必要としている。

2. 私メッセージで表現するとどのような言い方になるかを考える。

相手の行動を描写し、理由を述べ、自分の感情を述べる。この3つの要素が入る言い方をすれば、批判的にならないですむ。「電話をしているときに、大声を出されると、相手の声が聞こえないので困る」というような表現である。

3. 何も言わないで、別のやり方をする。

たとえば気づいた人が掃除をする。相手には何も言わない。言う必要のないことが多い。親はあまり子供に教えてやらなければならない、というような強迫神経症的な接し方をしないことだ。玄関の靴が整理されていなかったら、気づいたら整理する。限界だと感じたら子供を呼んで、「この玄関どう思う?」と聞いて、乱雑だと言えば、「じゃあ、整頓しておいてくれる?」と言うだけ。批判的なことは一切言う必要がない。

4. 「おや、そうだったのかい」を実践する。

認定講座のプリゼンテーションで、安達延子(岡山在住)さんが、絵本を使って上質世界のイメージ写真の張り替えの重要性を伝達された。マーサおばさんが小川の側で壺を見つけた。なんと中には金貨が入っていた。大変な金持ちになったと思って家に変える途中、それが銀の固まりに変わっていた。「おや、そうだったのかい」とマーサおばさんは、銀でよかったと言う。しばらくすると、鉄ころに変わっていた。「おや、そうだったのかい」とマーサおばさんは、鉄のほうが自分にはふさわしい、よかったと言う。しばらくすると、それが石に変わっていた。「おや、そうだったのかい」とマーサおばさんは石を受け入れる。家についてその石からショールをはずそうとすると、石は実はいたずらお化けであった。「おや、そうだったのかい」とマーサおばさんは、この年でいたずらお化けが見られたなんて、自分は幸せものだと言う。自分のイメージ写真と違った状況にぶつかったら、「おや、そうだったのかい」とイメージ写真の張り替えを手早くすると、批判をしないですむであろう。

批判されそうになったら

ナイフで刺されそうになったら、逃げるのが普通。批判も同様、ナイフで刺されるに等しい。批判されそうだと感じたら、「言わなくていいですよ。自分の問題点は分かっていますから」と言う。 サイモン博士(1978)が挙げている例に、女子大生が休暇で家に帰るのを躊躇しているケースがある。スーツケースを置かないうちに、父親の批判が始まるというのだ。クラス全員で戦術を立てた。彼女が家に帰ると、例のごとく、スーツケースを置くか置かないかのうちに、父親の批判が始まった。服装、化粧の仕方、髪形等々どんなことでも批判の対象になる。彼女はお父さんが口を開く前に、父親の頬を両手で挟んで、「お父さん、言わないで。私が帰ってきたのは批判を聞くためではないの」と言った。父親の目から涙があふれ、二人は抱き合って泣いた。父親は娘を愛しているがゆえに、娘の幸せを願っての批判だったのだ。その後二人はとてもよい関係を築いたとのことであった。ナイフで刺されるままにしないで、対処することだ。昔、オーストラリアのリアリティセラピー関係者のニューレターにある人が「自己評価は真空状態ではできないので、自分のよくないところを指摘して欲しい」と書いたことがあった。グラッサーはそれを読んで、とても勇気のあることだが、自分だったらそういうことを人に求めないと投書した。自分は精神的に強い方であるが、時に人の批判がぐさりとくることがある。そしてその批判は的外れであることが多い。講演会のアンケートも自分はことさら目を通さない。自分が話をするとき、聴衆の反応を見ていると、自分の話し方がどんなものかだいたい分かる。グラッサーはそう語っていた。講演の後の質疑応答で、自分の話し方が説明不足であったかどうかも分かる。確かに人の批判を歓迎する必要はあまりないようだ。フィードバックが全然得られなければ、批判しないでフィードバックをしてくれる人の意見を聞くこともできる。

まとめ

批判が許されるとすれば、パーソナルでない領域かもしれない。政治のあり方、医療行政の問題点、県警の不祥事など。しかし、これも批判ではなく、意見を述べる形でもできるであろう。批判しないでフィードバックをするという方法を身につける訓練をしていれば、パーソナルでない領域でも、批判的にならずに意見を述べることができよう。人間関係と、非人間関係に分けて、人間関係では批判をしないということから始めるのも一案。批判を大罪の一つととらない人にとっては、批判することこそその人の正義かもしれない。この場合物差しが違うので、意見はかみ合わない。リアリティセラピーの集中講座やプラクティカムで、批判をしないでフィードバックの仕方を身につけることが認定講座に出席する自己評価の基準の一つとなっている。少なくともリアリティセラピーに係わる人は、批判をしないフィードバックの仕方を身につける必要があると理解している。批判を大罪の一つと認めないとしても、批判しないフィードバックの仕方を身につけて損することはない。特に家族関係では大きな祝福となるであろう。

参考文献

Glasser, William (1984) Control Theory. New York: HarperCollins. 堀たお子訳(1985)『人生はセルフ・コントロール』サイマル出版会
Glasser, William (1998a) Choice Theory. New York: HarperCollins. 柿谷正期訳(2000)『選択理論』アチーブメント出版
Glasser, William & Carleen Glasser (1998b) Choice:The Flip Side of Control-The Language of Choice Theory. Chatsworth: The William Glasser Institute.
Gordon, Thomas (1963) Parent Effectiveness Training.近藤千恵訳(1977)『親業』サイマル出版会
日本心身医学会用語委員会編(1999)『心身医学用語事典』医学書院
恩田彰、伊藤隆二編(1999)『臨床心理学辞典』「自己評価」(杉村健) 八千代出版
Simon, Sidney B. (1978) Negative Criticism. Publisher unknown,


* 日本リアリティセラピー協会理事長、臨床心理士。 本研究は、1999年大会で「基調講演」として発表されたものに加筆、修正を加えたものである。