随分昔のことになる。米国でカウンセリング心理学を学んでいたとき、多くの人が「自己愛」を推奨していた。自分を愛することができなければ人を愛することはできない、と。また、自分を愛するとは自分を好きになることだと言われてきた。私はずっと疑問に思っていた。
人を好きという感覚はわかるが、自分を好きになった人はどんな感覚なのだろうか。私が女性を好きになると、男性を好きになるのとは違って、ホンワカした感じになる。しかし、自分が自分を好きになってホンワカした感じを持つとは思えない。誰にでも、「好きな人」、「好きでない人」、「好きでも嫌いでもない人」がいるだろう。通常これは他人に関することで、自分を好き嫌いの対象にはしていない。自分を好きにならなければいけない理由はあるのだろうか?
「あなたの敵を愛せよ」という聖書は、あなたの敵を好きになりなさい、とは教えていない。もし、言われていたら絶望的な感じになる。「愛する」は、「好きになる」の同意語ではない。好きで結婚しても好きでなくなることがある。愛するとは好きでなくなっても、その人を捨てないこと、と言えるかもしれない。好きか嫌いかは感情領域の問題で、愛するとは行為・思考領域と考えられる。敵を好きにならなくても、敵を愛することはできる。敵が飢えているときに、食べ物を提供することは、愛の行為である。好きにならなくても可能だ。誰かが歌っている。Love is something you do.「愛は何かをすることだ」と。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と教える聖書は、自分を愛することは、ことさら勧めなくても誰もがしている、という前提に立っている。自分を愛することや好きになることがことさら重要なら、聖書が「自分を愛せよ」「自分を好きになれ」と教えていてもいいはずだが、そのようなことを教えてはいない。
ブロッコリーが好きでない人にブロッコリーを「好きになりなさい」はハードルが高い。しかし、「ブロッコリーを好きにならなくてもいいよ。でも体にいいから食べなさい」と言われれば食べる人もいる。自分を好きにならなくても良いが、「自分の価値を認めなさい」、「自分は自分でいいんだよ」と受け入れなさいと言われる方が、自分を「好きになりなさい」よりも受け入れやすい。価値があるのは、自分は唯一無二のかけがえのない存在であるからだ。また、「好きな友人にはどんな特徴がある?」と聴き、その人の持っている特徴(誠実、楽しい、思いやり、博学、人の悪口を言わない、等)を身につけるようにするほうが教育現場では実用的ではないか。自己愛は辞書によるとナルシシズムと出てくる。推奨されるものではない。「自分を愛する者」は聖書では推奨リストには入っていない。利己的な傾向の人として避けられている。 柿谷正期(日本選択理論心理学会会長)
(日本選択理論心理学会 ニュースレター72号より)